第1章    秀吉以前の統治者 浅井長政
 第2章    長浜城主時代の秀吉と北近江
 第3章    秀吉の家臣たち
 第4章    秀吉の家族

 
 
長浜市指定文化財 浅井長政書状 下坂四郎三郎宛 1通 
元亀3年(1572)5月17日 本館蔵(下坂家伝来資料)

 元亀元年(1570)6月28日の姉川合戦後、浅井長政は、諸勢力と連繋して信長包囲網の形成を促し、みずからもその一翼を担い織田信長を追い詰めていったが、やがてその包囲網にほころびが生じ始める。
 天正元年(1573)8月、信長に攻められた長政は次々に支城を失い、頼みの朝倉氏も討たれ、ついに居城である小谷城で最期を迎えることとなる。湖北地域には小谷落城直前に、長政から家臣へ出された感状が何通か残される。
 本書もその一つで、家臣の下坂四郎三郎正治に与えたもの。信長との戦闘のため、小谷城へ籠城していた下坂に対して、下坂荘公文職などの知行を与える旨を伝える。同じ下坂家伝来資料に、正治(晩年は一智入道と名乗る)が子孫に長政宛行状の由来を語った文書があり、宛行状を「火うち袋」に入れて持っていたと述べる。浅井滅亡後も主君長政の書状を大切に持ち続けた様子がうかがえる。

 
羽柴秀吉判物 宮田光次宛 1幅 天正3年(1575)  本館蔵

 長浜城主・羽柴秀吉が宮田喜八郎光次に宛てた文書で、西草野のうちで400石の土地を与える旨が記される。西草野は、現在の長浜市野瀬町・鍛冶屋町がある草野谷周辺を指す。長浜城主時代の秀吉家臣団掌握のあり方を知ることのできる貴重な資料である。
 宮田光次は、秀吉の当初からの家臣で、長浜城時代も秀吉を支えた人物である。江戸時代の編纂物によると、「黄母衣衆」の一人にあげられている。

 
▲石田三成像(部分)
絹本著色 石田三成像 前田幹雄画 1幅 昭和55年(1980) 本館蔵

 長浜城主時代の秀吉が、北近江で登用した近江衆の一人、石田三成の肖像画。
 三成は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で敗れた後、伊香郡古橋村(長浜市木之本町古橋)の岩窟に隠れていたが、朋友であった田中吉政に捕らえられ、六条河原で斬首された。
 その遺骨は、京都大徳寺の円鑑国師(春屋宗園)に引き取られ、同寺三玄院の境内墓地に葬られた。その後、明治40年(1907)に三成墓所から遺骨が発掘され、さらに昭和51年(1976)には遺骨の写真やデータによる復顔が行われ、その成果をもとに本像が制作された。
 昭和に描かれたものであるが、科学的根拠に基づいて制作されており、在りし日の三成の容貌をうかがうことができる。

 ▲石田三成十三ヶ条村掟 多和田村宛
 
▲黒印部分
石田三成十三ヶ条村掟 多和田村宛 1面 文禄5年(1596) 個人蔵

 石田三成は、佐和山城主として領内の北近江4郡(犬上・坂田・浅井・伊香郡)に対して13カ条と9カ条の掟書を出しており、現在、20点近くの掟書が残されている。
 掟書は、農村で生活して年貢を納める百姓を把握し、その権利と義務を明確化することを目的としていた。13カ条と9カ条のそれぞれの内容に大差はなく、前者は三成の直接支配地に、後者は三成家臣の所領に出された。
 三成の掟書は、当時の他の大名に比べてかなり長文で、年貢の納め方など、その内容もきめ細やかで、三成がいかに領内の村々の実情を熟知していたのかがわかる。
 本書は、三成が多和田村(米原市)に出した13カ条の掟書である。9カ条の掟書が村の軒数を基準に人夫の差し出しを命じているのに対し、13カ条の掟書は、石高を基準に人夫の差し出しを規定している。第1条の最後に三成の黒印が押されている点が注目される。

 
長浜市指定文化財 石田三成生捕覚書 1通 嘉永7年(1854) 本館蔵(古橋村高橋家文書)

 関ヶ原合戦で敗れた石田三成は、伊吹山方面に逃亡し、浅井郡谷口村(長浜市谷口町)を経て、母親の故郷である伊香郡古橋村(長浜市木之本町古橋)に至ったとされる。三成追捕の命を受けたのは、三成と同郷の武将・田中吉政であった。
 本書は、三成の捕縛についての伝承を記した覚書である。越前福井藩士で、三成を捕縛した田中吉政の子孫といわれる田中勘助などが書き記した。古橋村が三成の捕縛地として広く知られていたことを示す資料である。

 
 初公開
 
 
 片桐且元等書状 長束正家等宛 1幅 文禄2年(1593) 本館蔵

 第1回目の朝鮮出兵「文禄の役」に際して、文禄2年(1593)正月26日に豊臣秀吉が出した朱印状への返答書。返答しているのは、朝鮮出兵に参加した中小の大名たちである。  
 秀吉朱印状では、九鬼嘉隆が使者を務めており、①「囲船」などの戦闘用の船舶を、今回の出陣に当たり名護屋(佐賀県)まで回漕すること、②兵糧は十分用意して欲しいが、不足があれば秀吉から支給すること、兵数は軍役規定より少なくてもかまわないこと、③3月に朝鮮に向かって出陣すべきことなどが記されている。
 これに対し本書では、正月26日付朱印状の内容については承知したことが、秀吉の側にいる奉行・長束正家等に対し述べられている。①船のことについては、早川長政と毛利兵橘へ報告すること、②兵糧の支給には感謝すること、③兵数は調べて奉行衆に報告する旨が記されている。この時期、朝鮮出兵は明軍の攻勢により、前線の小西行長らが平壌を失うなど、日本軍は劣勢を強いられていた。
 本書に見える軍隊の追加派遣は、この劣勢を逆転させるための作戦であろう。秀吉家臣として、朝鮮出兵で活躍していた片桐且元やその弟貞隆(主膳)の姿を読み取ることができる。

 
 
 
  長浜市指定文化財 淀消息 京極高次宛 1幅 江戸時代 知善院蔵

 秀吉の妻となった浅井三姉妹の長女・茶々(後の淀)が、妹・初(後の常高院)の夫である京極高次(さい将)に宛てた書状。
 淀は、天正16年(1588)頃に秀吉の妻となり、翌年、大坂城へ入った。本資料は、京極高次が大坂城を訪問したことへの礼状で、滞在中、十分なもてなしができなかったことを詫びている。また、領国である小浜(福井県小浜市)に向かう高次に、餞別として金子5枚を贈っており、「またの来訪を心待ちにしていること」、「たびたび秀頼や自身に対して手紙をくれることを嬉しく思っていること」などを述べる。
 文中に登場する「わかさ(若狭)」とは、高次の嫡男・京極忠高のことで、忠高が「若狭守」に任ぜられたのは慶長11年(1606)で、高次が慶長14年(1609)5月3日に亡くなっていることを考えると、本状は慶長11年から14年の間に出されたものと推定できる。 
 差出人の文字が「あこ」と読めることから、これまでは淀の侍女・あこが代筆したものと考えられていたが、近年の研究では、その伸びやかで流麗な筆運びから淀自筆の消息であるという説が有力である。淀と妹の嫁ぎ先である京極家との間に深い親交のあったことが読み取れる資料である。
 
 
 
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